今シーズンより中日ドラゴンズの打撃コーチを務めている和田一浩さん。

 

現役ドラフトで獲得した細川成也選手が和田コーチの指導で打撃が開花したなんて話も合って、さっそく実績を残しています。

 

和田一浩さんもプロ野球選手としてはかなり遅咲きの選手でしたからね、なにせ初めて規定打席に到達したのは30歳の時でしたから。

 

ですがそこからヒットを積み重ねて、2000本安打を達成しました。

 

その特異な経歴から、彼が積み重ねたヒットのグラフは和田曲線なんて言われ方もしています。

 

和田曲線、いったいどういったものなのでしょうか?

 

【生年月日】1972年6月19日

【出身】岐阜県岐阜市

【身長/体重】182cm/85kg

【高校】岐阜県立岐阜商業高校

【大学】東北福祉大学

【社会人】神戸製鋼

プロ入り当時はキャッチャーだった和田一浩

現役時代は西武ライオンズ、そして中日ドラゴンズで活躍した和田一浩さん。

 

県立岐阜商業~東北福祉大学~神戸製鋼を経て、96年のドラフト4位で西武ライオンズに入団しました。

 

当時24歳、なんとも初々しい姿で会見に挑んでいます。

 

 

ですがプロ入り後の道は決して順風満帆とはいきませんでした。

 

当時の和田一浩さんはキャッチャー

 

そのポジションにはチームの黄金期を支えた伊東勤さんという絶対的な選手がいたからです。

 

それまでにもたくさんのキャッチャーが伊東勤さんに挑んできましたが、誰一人としてレギュラーを勝ち取ることはできませんでした。

 

和田一浩さんも、捕手争いに挑み、そして敗れていった選手のうちの1人。

 

キャッチャーとしては97年に14試合98年に18試合に出場するものの、99年には8試合2000年にも8試合

 

シーズンを重ねるごとにキャッチャーとしての出場機会が減ってしまうような状況だったのです。

 

一方で打撃の方は評価されていて、ファーストや外野としての出場の方が上回るようになりました。

 

2000年には55試合の出場で打率.306(170-52) 1本塁打 24打点の成績を残しています。

 

 

そんな中、2001年は久しぶりにキャッチャーとしての出番が多くなりました。

 

主に松坂大輔さんとのバッテリーで売り出され、キャッチャーとしては25試合、シーズントータルでも82試合に出場。

 

 

打撃も好調で、打率.306(206-63) 16本塁打 34打点と好成績。レギュラー取りに一気に飛躍を遂げたシーズンかと思われました。

 

ですが翌シーズンから確かにレギュラーに定着したものの、それはキャッチャーとしてではなく外野として。

 

2001年を最後に、キャッチャーとして出場することはついにありませんでした。

 

30歳からヒットを積み重ね2000本へ

2002年シーズン、和田一浩さんは5番レフト(もしくは指名打者)に定着します。

 

アレックス・カブレラに続く打者として打線の中核を担い、115試合に出場。

 

初めて規定打席にも到達し、打率.319(439-140) 33本塁打 81打点の成績を残しました。

 

この年、チームは90勝を挙げてパリーグを圧倒的成績で優勝。

 

トリプルスリーを達成した松井稼頭央さん、55本塁打を放ったアレックス・カブレラはもちろん、和田一浩さんの活躍も大きかったと思います。

 

和田一浩さんが30歳になるシーズンでした。

 

 

そしてここから、和田一浩さんはヒットを積み重ねていきます。

 

2002年~2004年まで3シーズン連続で3割30本塁打を達成。

 

2002:打率.319(439-140) 33本塁打 81打点

2003:打率.346(468-162) 30本塁打89打点

2004:打率.320(394-126) 30本塁打 89打点

 

2005年は27本塁打で30本を割ってしまいますが、打率.322で首位打者を獲得しました。

 

2006年は打率.294、19本塁打と少し落ち込んでしまったように見えるものの、打点は自己最多の95打点をマーク。

 

2007年は打点こそ少ないものの、打率を再び3割に載せます。

 

2005:打率.322(475-153) 27本塁打 69打点

2006:打率.298(484-144) 19本塁打 95打点

2007:打率.315(501-158) 18本塁打 48打点

 

 

そしてこの年のオフ、FA権を取得して中日ドラゴンズへと移籍しました。

 

セリーグに移籍してからもその打棒は変わらず。

 

初年度からいきなり打率3割をマークしてしまいました。

 

2009年にも3割29本塁打を達成、2010年には打率.339、37本塁打の好成績を残します。

 

打率は2003年に次ぐ自己2番目の記録、本塁打に至ってはキャリアハイです。

 

このシーズンで38歳になる年でしたが、衰えを全く感じさせない成績を残しました。

 

2008:打率.302(520-157) 16本塁打 74打点

2009:打率.302(517-156) 29本塁打 87打点

2010:打率.339(505-171) 37本塁打 93打点

 

2011年は統一球の影響もあってか成績を落としてしまいますが、その後はまた持ち直してチームに貢献。

 

そして2015年、ラストシーズン、ついに2000本安打を達成しました。

 

2011:打率.232(444-103) 12本塁打 54打点

2012:打率.285(508-145) 9本塁打 63打点

2013:打率.275(508-145) 18本塁打 76打点

2014:打率.281(302-85) 16本塁打 65打点

2015:打率.298(218-65) 5本塁打 26打点

 

入団してから5シーズンでの通算安打数は149本

 

そのほとんどを30代に入ってから放ち、2000本に到達したのです。

 

長い歴史の中でも異色の存在

プロ野球の長い歴史を紐解いても、なかなか30代からブレイクして2000本まで達成した選手というのはいません。

 

2000本安打を達成した選手は、やはり20代のうちからヒットを積み重ねています。

 

例えば同じ大卒社会人で入団した古田敦也さん(65年生まれ)でも、ルーキーイヤーの90年から20代ラストシーズンの94年まで、5シーズンで583本のヒットを重ねています。

 

大学中退ではありますが、同じく社会人経由で25歳の時に入団した落合博満さん(53年生まれ)でも、79年~82年の4シーズンの間に350本のヒットを放ちました。

 

助っ人外国人で初の2000本安打を達成したアレックス・ラミレス(自称74年生まれ)でも、2001年~2003年の3シーズンで491安打です。

 

和田一浩さんのように20代の間に200本どころか150本にも満たない中での2000本安打は本当に異例なのです。

 

あまりにも特殊なケースのため、その積み重ねが和田曲線なんて呼ばれ方をしているわけですね。

 

 

和田一浩さんもポジションの都合で試合に出場できていなかっただけで、バッティングは期待されていました。

 

もしもっと早く外野に専念していたら、もう数百本くらいヒットを打っていたのではないでしょうか?

 

でも30代からでも十分すぎるくらいの成績ですよね。

 

和田一浩さんを支えたのは、やはりその独特のバッティング技術でしょう。

 

他の誰にもまねできないようなバッティングを、何度も見せてくれました。

 

特に中日ドラゴンズ時代、2009年の阪神戦で藤川球児さんのストレートを低い弾道でホームランにしたバッティング

 

 

このバッティングは特に覚えている人も多いのではないでしょうか?

 

もう37歳に差し掛かるシーズンだというのに。

 

この驚異的なバッティングができたからこそ、2000本に間に合ったのだと思います。

 

はたして今後この曲線を描くような成長を見せてくれる選手は現れるのでしょうか?

 

最も近いのはオリックス・バファローズの杉本裕太郎選手ともいわれていますが……?

 

※杉本裕太郎選手…91年生まれ、2021年シーズンに初めて規定打席に到達し.301(478-144) 32本塁打 83打点

 

https://twitter.com/jetpack/status/1529089193346883584 https://twitter.com/jetpack/status/1458760458224107527

 

 

いかがでしたか?

ながいNPBの歴史の中でも、他に例のない存在となった和田一浩さん。

 

レギュラーに定着したのが30歳になる年なのに、そこから2000本安打まで到達してしまうなんて。

 

果たして和田一浩さん以上の遅咲きの選手は、今後現れるのでしょうか?

 

もしそうなったら、また新しい曲線が生み出されるかもしれませんね。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。