消えた天才が野球界に帰ってきた。

 

西武ライオンズ背番号68、岸潤一郎選手。

 

明徳義塾高校では4度の甲子園出場を果たし、「甲子園の申し子」とまで呼ばれました。

 

しかし大学ではケガに泣かされ、満足なプレーができず、野球を断念してしまいます。

 

1度は野球をから完全に身を引くことも考えたそうですが、周囲の人に支えられ、独立リーグでプレーすることを決意。

 

そして2019年のドラフトで西武ライオンズに指名を受け、夢の大舞台に戻ってきました。

 

1度は表舞台から姿を消した天才、その軌跡を追います。

 

【生年月日】1996年12月8日

【出身】兵庫県尼崎市

【身長/体重】174cm/82kg

【高校】明徳義塾高校

【大学】拓殖大学(中退)

【独立】徳島インディゴソックス

 

帰ってきた天才・岸潤一郎

2019年のドラフト会議にて、埼玉西武ライオンズから8位指名を受け入団した岸潤一郎選手。

 

徳島インディゴソックス時代は足を武器にしており、2年間で73盗塁を記録(133試合)。

 

ルーキーイヤーとなった2020年シーズンは、主に2軍で経験を積み

54試合 打率.253(150-38) 4本塁打 21打点 4盗塁

という成績を記録。

 

1軍でも5試合に出場しました。

 

長距離砲の多い西武ライオンズで、快足を生かしてレギュラー奪取に期待がかかります。

 

 

 

岸潤一郎選手、1度は野球界から姿を消したこともありました。

 

高知・明徳義塾高校時代は4度、甲子園に出場。

 

しかし大学ではケガに泣かされてしまい、さらにはコーチと揉めたという話もあって、3年の秋に退部してしまいます。

 

その後、もう野球はやらないと決意し、一般企業に就職することも考えていました。

 

その天才が、どうして再び野球界に戻ってくることになったのでしょうか?

 

輝かしい明徳義塾時代

明徳義塾高校時代の岸潤一郎選手は本当にセンスの塊のような選手でした。

 

投げては最速146km/hのストレートとキレのある変化球を武器に、クレバーなピッチングを披露。

 

打っては1年生の時から4番に座り、高校通算26本塁打を記録。

 

3年生の時にはエースで4番でキャプテンという重圧の中、チームを甲子園に導きました。

 

 

 

特に大阪桐蔭高校との因縁の対決は見ごたえがありましたよね。

 

1年夏は準決勝で大阪桐蔭と対戦。

 

岸潤一郎選手は4番ライトで出場するも、藤浪晋太郎選手(現:阪神タイガース)の前にノーヒットに終わります。

 

投げては6回途中から救援し、2回1/3を無失点に抑えるも、試合は4-0の完封負け。

 

大阪桐蔭は勢いそのままに甲子園を制覇してしまいました。

 

 

 

しかし2年の夏に再び甲子園に戻ってくると、今度は3回戦で激突。

 

1回表、いきなり1番の峰本匠選手に先頭打者本塁打、

 

さらに3番の森友哉(現:埼玉西武ライオンズ)にヒットを打たれるものの、何とか最少失点でしのぎます。

 

すると2回裏、岸潤一郎選手のデッドボールから明徳打線がつながりを見せ、一気に3点を取り逆転。

 

3回にも2点を追加し、5-1とリードする展開に持ち込みます。

 

リードをもらった岸潤一郎選手は、粘りのピッチングが続きます。

 

初回以降も再三ランナーを出すも、後続を断ち切り何とか無失点。

 

この日浴びたヒットは8本、うち5本は長打。しかし要所を締め、大阪桐蔭打線の反撃を抑え込みました。

 

そのまま9回を投げ切り、みごと5-1の完投勝利。前年のリベンジを果たします。

 

 

 

3年生の夏はなんと2回戦で激突。

 

この日も先制したのは大阪桐蔭でした。

 

初回に香月一也選手(現:読売ジャイアンツ)のツーランで2点を先制。

 

その後も岸潤一郎選手を打ち崩し、4回までに5点を奪います。

 

投げては大阪桐蔭先発の福島孝輔選手が明徳打線をピシャリ。

 

8回終了時点で5-1と大阪桐蔭がリードします。

 

9回の明徳の攻撃も簡単にツーアウトを取られ、いよいよ万事休す。

 

しかし2死からランナーが出ると、ここで打席には岸潤一郎選手。

 

初級を豪快に降りぬくと、打球はライナーでレフトスタンドに突き刺さったのです。

 

 

まだ終わらせない

 

野球の神様の粋なめぐりあわせか、甲子園最後の打席をホームランで飾りました。

 

 

もちろん高校野球の活躍はこれだけにとどまらず、国体ではサイクルヒットを達成したり、U-18のメンバーとしても活躍したり。

 

もう本当にとんでもない選手でした。

 

ケガもあって拓殖大学を中退

高校ではプロ志望届を出さず、明徳義塾・馬淵監督の母校である拓殖大学へと進学します。

 

なんでも本人からすれば「これといった武器」がなかったそうで。

 

いやいや私たちからすれば全てが揃った選手に見えていましたけども…

 

本人的にはまだまだ満足できなかったのか、4年後にドラフト1位指名されるような選手を目指し大学進学を決意します。

 

 

拓殖大学では1年生の春からレギュラーの座を勝ち取り、リーグ戦に出場します。

 

野手としては12試合で打率.156(45-7)と苦しみましたが、投手としては3試合に登板して防御率1.35をマーク。

 

二刀流としても期待がかかりました。

 

 

 

 

がこの時、岸潤一郎選手の体には異変が起きていました。

 

このころから肩に違和感を覚えるようになったのですが、無意識で肩を庇ううちに、今度はに痛みが走り始めます。

 

肘がよくなると肩が痛み、肩がよくなると肘が痛み……

 

この痛みのスパイラルが続き、とうとう肘の痛みが限界を迎えてしまいました。

 

一度地元に戻り、トミー・ジョン手術を受けることとなります

 

それからはリハビリをして復帰を目指すはずだったのですが、ここで岸潤一郎選手の気持ちが切れてしまいました。

 

トミー・ジョン手術は平均して1年半ものリハビリ期間がありますから。

 

また当時のコーチとあまりウマが合わず、口論になったという背景もあったのでしょうか。

 

岸潤一郎選手の野球への熱はすっかり冷めてしまい、そのまま退部してしまいました。

 

両親は大学だけでも卒業してほしいと伝えたのですが、大学も中退。

 

表舞台から完全に姿を消してしまいました。

 

独立リーグで復活を遂げる

大学を辞めた後は完全に野球から離れ、一般企業への就職も考えていたそうです。

 

そんな時、彼に声をかけたのが、徳島インディゴソックスの球団社長・南啓介氏でした。

 

南社長が岸潤一郎選手の両親を通して「もう1度野球をやらないか」と声をかけてくれたのです。

 

明徳義塾は四国を代表する野球の名門ですから。

 

徳島インディゴソックスにも当時の彼を知る選手がたくさんいたんだとか。

 

岸潤一郎選手も1度は断ろうと考えていたのですが、南社長の熱心なアプローチ、

 

そして何より両親の「もう1度、野球をやっている姿を見たい」という後押しがあり、復帰を決心しました。

 

これが2017年の秋ごろの話です。

 

そして11月にトライアウトに合格し、正式に入団。

 

翌シーズンからは開幕からレギュラーとして試合に出場し、1年目から38盗塁を記録して最多盗塁を獲得するほどの活躍を見せました。

 

 

高校時代は「これといった武器」がないと言っていた岸潤一郎選手ですが、徳島で「」を武器にすることにしたみたいです。

 

2年目は肩・肘の調子もよくなったのか、1番・ショートとして試合に出場。

 

35盗塁を決め、2年連続の30盗塁以上を記録しました。

 

TBS「消えた天才」に出演したのもこれくらいの時期でしたね。

 

 

そしてこの年のドラフトでライオンズから8位指名。

 

消えた天才が再び表舞台に戻ってきたのです。

 

 

しかしここはまだゴールではありません。

 

プロ野球の世界では結果を残せずに消えていく選手の方が圧倒的に多いですから。

 

帰ってきた天才は、プロの世界で結果を残すことができるでしょうか。

 

 

いかがでしたか?

輝かしい高校時代、挫折を経験した大学時代、そして手を差し伸べてもらった独立時代。

 

さまざまな経験を経て、天才が再び表舞台に帰ってきました。

 

高校時代の彼を知る身からすれば、ようやくといった感じですね。

 

ですがあの雄姿をまた見ることができるなんて、これ以上嬉しいことはありません。

 

きっとあの時以上に強くなっているはず。

 

また私たちをワクワクさせてくれることに期待しましょう。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。